震災から7年。

防災

2011年3月11日の東日本大震災から今日で7年です。

あの日、私は仙台市中心部に近いアパートでゴロゴロしていて、そうしたら地震が来たのでした。

青空
Photo:Engin_Akyurt_Pixabay

地震の後、元々曇りだった天気が急に青空が見えるくらいかーっと晴れ、かと思えば、また曇って雪がばーっと降ったり。あれは地震の影響だったんだろうな。と思います。

住んでいたところから海は大分遠かったですが、地震からしばらくして、海の方向を見ると、何か燃えていたのでしょう、黒い煙が一面に大きく広がっているのが見えました。

停電した中で、周りは静かで、持っていた手回しラジオでニュースを聞きながら、なんだかジタバタと荷物をまとめたり整理してみたりしてました。何かせずにはいられないといった感じでした。

あの日は金曜日で、夕方になると普通に仙台駅方面からお勤めの方々が歩いて帰ってきていました。もちろん停電で灯りがつかないので、だいぶ暗くなった中です。

その晩は、最寄りの避難所へ行き、卒業式の飾りつけのままの体育館でパイプ椅子に座ったまま眠りました。備蓄の毛布が絨毯みたいにゴワゴワで固かった。けれどその晩私は結構よく眠りました。

街の様子

交番はずっと長蛇の列。警察も実質機能してないような状態でした。仙台駅や市街地でも、崩れている外壁や設備が囲いも無くそのままだったり、平時ではあり得ないので、ちょっと無法地帯の様なそんな不気味さはありました。

けれど実際カオスだったのは避難所だったと思います。普段表に出てないものが地震があった事によって表に出てくるという様な。日が経つほど、どうにも行き場がない人が残る感じでした。私がいたのは仙台中心地だったので、特にそういう印象が強いのだと思います。地域が密接なところの避難所はまた違ったと思います。

けれど、私のいた避難所はまだ恵まれていたと思います。トラブルも自治で対応していましたし、物資の面でも、交通の便が良い場所で恵まれていたと思います。

無法地帯と書きましたが、実際、仙台中心部は津波の被害が無かったので、他の被害の酷かったところへあらゆる戦力は集中して、仙台中心部は一時かなり手薄だったのだと思います。

まあ、私が知らないだけで、犯罪的な事から細かなトラブルまで、起こっていただろうな。と思います。避難所でも胡散臭い人やら、きな臭い事はたくさんありました。

 

私は3月18日に、復活した高速バスで東京に出ました。

思い出深い事

3月12日か13日、確か12日の夜だったと思います。外出していて避難所に戻ろうと信号を待っていた時(仙台の中心部は12日の夜に電気が復旧しました)、サイレンを鳴らしながら三重県の消防隊が消防車を何台も連なって海の方に走って行きました。

津市などの三重県のあらゆる自治体の名前が車体に見えました。三重県の連合の消防隊の様でした。

10台くらいではなく20台はあったのではないかと思います。ちょうど信号も青で、夜の暗く静かな中、色々な形の赤い消防車が何台も連なって走って行く姿は壮観でちょっと涙が出そうでした。実際、私と別に若いカップルも信号待ちをしていたのですが、男の子が泣いていたようでした。きっと地震発生後夜通し走ってきてくれたんだろうなーと。

仙台中心部の被害状況

自転車で走り回ったりしてましたが、外壁が落ちたりひびが入ったりはしても、自分で見た限りでは「倒壊」とかはありませんでした。ただ、ご存知の方もいるかと思いますが、倒壊していなくても建物はダメージを受けていて、見た目OKでも検査後、もう住めない・取り壊しを意味する赤札になった建物が多く出ました。

私が引っ越しのために仙台を訪れた4月下旬にも、赤札が周辺のマンションや建物に結構貼られていました。

友達でも家族で住んでいたマンションが赤札になって住めなくなった人がいました。地震で即倒れることは無かったものの、その後使えなくなった建物は多かったという事ですね。倒壊してたら犠牲者がもっと出てたでしょうけど、何とも言えません。

 

家の中の被害

私は一人暮らしのアパート暮らしでした。揺れは強く、本が飛び出したり、冷蔵庫のドアがバッタバッタ開いて冷蔵庫自体も前にせり出してきたり、観音開きの扉は大体全部開き、まあまあ室内はぐちゃぐちゃになりました。

ただ、一人暮らしで荷物もそんなに多くなく、タンスなどの大物の家具も持っておらずで、何か壊れたとか使えなくなったとかはほとんどありませんでした。

一番大きい家具が冷蔵庫だったかも。単身用の。やはり大きいものは動いたり倒れたりすると大変ですが、そういう物がごく少なかったのは幸いでした。本棚もカラーボックスだったので、カラーボックスは背が低く、奥行きがあるので本が飛び出しにくいです。本がちょっと前に出たくらいで止まりました。

あとは部屋が和室だったので、収納が押し入れで、引き戸で襖だったせいか、ほとんど開かず、物の飛び出しもありませんでした。襖は開くときに抵抗があるから地震でもすんなり開かず良かったのかもしれません。ただ押し入れの中でシェイクはされてました。でも服とかばかりなので、壊れたりとかはなかったです。

ちなみに食器類はキッチンのガスコンロ下の収納に入れていたので、高さも低く無事でした。食器で割れたのは、冷蔵庫の上の電子レンジのそのまた上の、トースターの上に置いていた小皿だけでした。確か。

トースターは転げ落ちてましたが壊れてませんでした。電子レンジは落ちなかったです。

家族で住んでいる友達などは、食器棚が倒れたと言ってました。食器棚が倒れると、割れた破片も散らばるし、一気に手を付けづらくなると思います。割れ物は高い位置に収納せず、単独の食器棚なども倒れると危ないので使わない方が良いのかもしれません。最近のシステムキッチンは食器の収納は引き出し式で低い位置になっていますね。

あと、思うのはピンポイントの地盤の強さもすごく重要だと思いました。私の住んでたあたりが地盤が強いかは分かりませんが、アパートは赤札にもならず今もあります。

 

おわりに

7年経ちましたが、私の中では風化してません。と、思っていたけど、今回↑の消防車のエピソードを書いてて、三重県だったのは確信があるのですが、車体に書いてたそれぞれ○○市○○町というのを思い出せなくなっていて、ちょっと考え込みました。

忘れないように、覚えているうちにちょくちょく書いておきたいと思います。

仙台での被災は、私は他県の出身で、周辺に親戚もいないので、失う物もないし守るものもなく、非常に身軽な状態でした。逆に言うと頼れる人もいなかったわけですが。街や県や周りの県が大きな痛手を受けているのに自分はそんな中にポツンといてなんだか申し訳ない様な気持ちでした。申し訳ないところもあるけど、まだ若かったらさっさと乗り越えられたとも思います。なんだか宙ぶらりんの一人ぼっちで不安だったし、もっと年取ってこういう事があったらきついなーと思います。

そのまま東京に引っ越しましたが、荷物が出せなくなって二重家賃が発生したのはちょっぴりの痛手です。ちょうど新年度前でしたし、あの時は二重家賃が発生した人は多かったのではないでしょうか。

もう経験したくないけれど、日ごろから備えておかないといけないと思い改める3月11日でした。

 

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